文京区の図書館主催の講演会に行ってきました。
秋葉恵子さんのお話しは、パセージでこんがらがっていたわたしの頭をやさしくときほぐしてくれました。
第6章は、『体験を通じて学ぶ』ということを勉強します。
そのうちの一つ、26−L「1.ことばを通じて学ぶ」ということの意味が分かると言えば分かるのだけど、分からないといえば分からない状態でしたが、別の角度から『ことば』について教えてもらったような気がします。
実はわたし、絵本が読めなくて、絵本コンプレックスです。
どうして絵本が読めないか、よ〜〜〜く分かりました。
本は大好きでたくさん読みますが、絵本はどうしても読めないのです。
最後まで読むと息切れします。
私は、物語がすきです。でも、自分の中にでてくる空想の絵で十分なので、絵本の絵の部分は必要がないみたいです。だから,わたしには活字で十分なんだ、と納得してしまいました。
さっそく講演会で聴いてきた『こすずめのぼうけん』のあらすじをルパンにしてみたら、心に響いた感じでした。子どもは主人公と共に体験するそうです。がっかりする場面はほんとうに悲しそうな顔に変わっていくし、最後のハッピーエンドの場面はほんとうにうれしそうな顔をしています。
困難を乗り越えられる
方法はいつくもある
という物語を自分が主人公になって体験することで、子ども達の生きるうえでの大きな体験にもなるそうです。
パセージで習っていることが随所にリンクして、パセージはやっぱり私の子育ての指針になっているなあと思いました。パセージ中に扱う事例も、よく考えれば自分がその物語の中に入っているのです。だから、終わった後の一緒に解決できたなどの喜びを共にシェアするのです。分かち合うことにより、それが力となり仲間となるような気がします。きっと、この部分でなかなかコアをシェアしていないと話し合えないので、私はアドラー仲間がほしいのだと思います。とおもったら、おなじ文京パセージを受講中のお母さんもいたので、同じアンテナだ〜と嬉しくなりました。
アドラー仲間の定義は、対等で平等。臆病でない。能力がある。人々は仲間だ。
割と普通に生活していると、日本文化の「本音と建て前」と「謙遜」の美徳がでてくるのでしょう。
人と比べ、謙遜し、卑下し、人間関係めんどくさいなあとなるのかなあと思いました。
もっと熱い人間関係がきづけるようになると、ラクなんだろうなと思います。
途中、なぜか介護の話にもなり、
松岡享子さんのコラムを朗読されました。
『老人はなぐさめようがない』
『幸せだった頃』
『老いて閉ざされた』
『子ども時代の幸せのたくわえ』
というキーワードが胸に突き刺さりました。
老人は徐々に子どもにかえっていくわけではなく、いきなり子どもになってしまうそうです。
子どものころに話していた方言を話すようになるとか。。。
私がすんごい苦手なおばさんが浮かび、あのおばさんが幸せだった頃はあったのかなあとおもってしまいました。夫に先だたれ、長男に先だたれ、二男は結婚しない、と、いつも誰かいないか聴いているおばさんのイメージがあって、悲劇の母を演じているのかなあと冷めた目でみていました。それが私の恐怖だったかも。(汗) 年老いてからは、昔話ばかりだし。。。。しかも、同じ話。
もしかしたらこのおばさんには、幸せのたくわえがない、もしくは忘れてしまうほど大変だったのかも、と感じることができました。次にあったら、おばさんにしてもらった嬉しかったことを伝えてみようと思います。マーブリングセットをくれたことや、かわいい女の子のアップリケ付きのレッスンバックを作ってくれたことなどです。
あ、そういえば、グリーフケアの活動をしている人のことばで、人がいじわるなのは、その人の持っている悲しみ苦しみがまだ癒やされていないからなのよ〜ということでした。そのおばさんが特にいじわるってわけではないですが、なにかにつけて批判的なのは、そういうことなのかもと思いました。
日本的な美として、『自己犠牲』が好まれるそうですが、子どもにとって嫌なこと、不安なことはなかったことにしたい、忘れようとする、それができなくなると、心が壊れるそうです。自己犠牲は、子供達はあこがれないので、良質な物語を選ぶことはとっても大切だそうです。
絵本を子ども達に読んでいないので、ちょっと劣等感がありましたが、まあ、これで「絵本」と「物語」は別物とはっきり自分の中で基準ができたのでスッキリしました。また別の角度からの子どものための本を選ぶ基準が分かって良かったです。
山のように絵本やら紙芝居を借りていくお母さん方、けっこういるので焦っていたのだけど、これからも自分のために図書館利用するだろうと思います。